青い日記帳 

TB&リンク大歓迎です!
<< August 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
<< 「鍋島」展 | main | 「諏訪敦絵画作品展〜複眼リアリスト〜」 >>

まなざしの共有

講談社選書メチエから出ているこちらの本。


「共視論―母子像の心理学」

8人の優れた論客による共著ですが、その中で田中優子氏が第2章で書かれている「場の江戸文化」に於いて大変興味深い指摘がなされています。

本文を引用しつつ簡単にご紹介。

一般的に日本における透視図法絵画(所謂、線的遠近法)は、1740年代の芝居絵(「浮絵」)から用いられているそうです。

芝居絵というと写楽の描いた絵をすぐさま想像しがちですが、写楽の「大首絵」はそれより新しいものでここでいう「芝居絵」とは違います。

田中氏が注目する芝居絵(「浮絵」)は奥村政信や鳥居清忠の描いた以下のような作品を指しています。


奥村政信「仮名手本忠臣蔵


鳥居清忠「仮名手本忠臣蔵

この二枚の絵に共通しているのは、「仮名手本忠臣蔵」のどの場面を描いているかとか、舞台上の役者の勇姿を描いていたりするのに主眼が置かれていないという点です。西洋絵画のように神を神たらしめるべく、視覚のトリックを使い「そこに在る」ように見せる為に遠近法を用いていません。

それでは、一体江戸時代の絵師たちは何のためにパースペクティヴを用いたのでしょうか?単なる物珍しさからでしょうか?

どうやらそうではないようです。田中氏はここで舞台上の役者ではなく、舞台手前周辺に夥しく描き込まれている「観客」に眼を向けています。

上にあげた二枚の芝居絵からも分かる通り、画面の大半を芝居小屋に来ている市井の人々を描くのに割いています。大変賑やかな画面です。芝居役者の声などはっきり言ってこれらの絵からは聞こえてきません。聞こえてくるのは専ら観客の笑い声やおしゃべり、はたまたお弁当を食べる音です。

二枚目の鳥居清忠が描いた「仮名手本忠臣蔵」などは画面手前の横木に腰掛けたり、女性が歩き渡っていたり、その横にはまたいでこちら(絵の外)にやって来ようとする人まで描かれています。

また、芝居絵に限らず例えば羽川藤永によるこちらの作品。

羽川藤永「朝鮮通信使行列図

これなども、朝鮮通信使行列が主題の作品でありながら、多くの見物人が必要以上に描き込まれています。作品中の見物人がまるで絵を観る自分であるかのような錯覚すら引き起こします。

因みに岩波新書から昨年出された「朝鮮通信使―江戸日本の誠信外交」仲尾宏・著は今まで全く知らなかった事実がゴロゴロ紹介されている驚きの一冊。そーでもいいような内容の新書本が雨後の筍のように出る中にあってこれは大変貴重で価値ある一冊です。

閑話休題。
こうした一連の絵の中に多くの観客、見物人を描きこんだ江戸時代の作品について、田中氏はずばりこう述べていらっしゃいます。
絵の中の世界と観る側の世界とをつなげてしまうという、意図が見える

これこそが、江戸時代の絵師達が遠近法という新しい技法を用いて表現したかったものではないのでしょうか。

「浮絵は観る者を絵に引き込むばかりでなく、絵の中の人物と絵を観る者が、芝居や朝鮮通信使行列を共視し、その体験を共有するように仕組んでいるのである。(中略)つまり浮絵は見る者をその絵の住人にしてしまおうと誘いこむ、それも「自我の視点」とう意味おいてではなく、場に引き込む、という意味においてである。」

西洋画の線的遠近法を見よう見まねで作品に取り入れた江戸時代の絵師達。キリスト教的な一神教の視点ではなく、八百万の神々的な日本式に知らず知らずのうちにアレンジし作品に生かし新たな表現技法として用いていたことになります。

実に日本人的な発想ではありませんか。
何だか妙に嬉しくなってしまいます。

浮世絵を観て漠然とした情誼ともとれる好意を抱くのはこうした至極日本人的な視座が描き込まれているからなのかもしれません。

芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎 (Shotor Museum)
芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎 (Shotor Museum)

さて、さて田中優子氏の「場の江戸文化」は浮世絵だけでなく、芝居自体や俳諧、狂歌まで多様な展開を「場」をキーワードとして展開されています。もう少し身近な浮世絵作品も取り上げて欲しいな〜と思いつつ読み続けると、読者と心を共有しているかのようにしばらくして、広重の話題が。

「えっ?広重の作品中に“まなざしの共有”が??」と思われますよね。
でも確かに言われてみれば…

19世紀になって登場した浮世絵風景画にも観る者を場に引き込む方法がしっかりと引き継がれていると田中氏は述べます。それは見慣れた歌川広重の「名所江戸百景」にも見て取れるそうです。

たとえばこちら。

名所江戸百景 日本橋江戸橋

これの絵のどこに眼差しの共有が?と思います。注目すべきは右端の魚の入った桶。これは一体何??実はこれ目の前を猛スピードで横切る初鰹売りを表現したものだそうです。

あまりに素早く目の前を通り過ぎたため魚売り自身は見えず僅かに残滓としてカツオを入れた桶が見えるだけ。

っとすると、我々(作品鑑賞者)は一体どこにいることになるのでしょう。。。
あれあれ……

整理しましょう。
人影は日本橋の上に立ち江戸橋方面に昇る日の出をぼんやり眺めていると目の前を猛スピードで初鰹売りが横切って行った。

さて、さて人影は誰でしょう?
「名所江戸百景」内に描かれた日本橋に立っている人でしょうか。
それともこの絵の鑑賞者である我々でしょうか。

間髪入れずに。それでは同じ広重の「名所江戸百景 羽田の渡し弁天の社」この絵の主体は一体誰になるのでしょう?



渡し船に乗っている人物の視線と、鑑賞者の視線が完全に同化しています。

これこそ、描かれている空間が絵の外に「はみ出し」絵を観る者はその絵の中のシーン「場」を共有している決定的なワンショット.

西洋絵画的な見方からすると、こんな絵はまるで「失敗したスナップショット」にしかせいぜい見えないかもしれません。

最後に田中優子氏のこの言葉で。
「『はみ出している』と感じるのは、はみ出していない西洋演劇や西欧絵画に慣れてしまった現代の日本人であり、江戸時代の人たちにとっては、歌舞伎や文学や浮世絵が、眼には見えない、身体と想像力で感じる『場』をともなって現れてくるには、当たり前のことだったであったろう。」

共視論―母子像の心理学 (講談社選書メチエ)
共視論―母子像の心理学 (講談社選書メチエ)
〈浮世絵に描かれた母子像は何を語るか〉
蛍、花火、しゃぼん玉。輝いて、そして消えていく対象を眺める母子。象徴を共有し、言語を使用するための基盤となるこの構図を日本人はなぜ好むのか?「共視」する母子を取り囲む「場」の文化とは?精神分析学をはじめ、さまざまな分野の新しい知見をもとに考察する、視線をめぐる人間論。

【目次】
第1章 共視母子像からの問いかけ 北山修
第2章 場の江戸文化 田中優子
第3章 共に見ること語ること――並ぶ関係と三項関係 やまだようこ
第4章 発達心理学から見た共視現象 遠藤利彦
第5章 視線の構造 三浦佳世
第6章 タテ社会における視線 山口裕幸
第7章 まなざしの精神病理 黒木俊秀
第8章 アジアの親子画、日本の浮世絵――育児文化の変容 中村俊哉

おまけ
太田記念美術館で昨年10月に開催された「浮絵 −江戸のパースペクティヴ−」展、「場の江戸文化」にも登場する作品も展示されていたので、行こう行こうと思いつつ、結局行かずじまい。悔しい。。。

鳥居清忠「鶴亀貢太平記」 

江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー た 19-1)
江戸はネットワーク (平凡社ライブラリー た 19-1)
田中 優子


この記事のURL
http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1295

JUGEMテーマ:アート・デザイン


その他 | permalink | comments(1) | trackbacks(0)

この記事に対するコメント

お久しぶりです。
大変興味深い内容で、記事に惹きこまれてしまいました。
あの凄すぎるパースの浮絵は、どういう意味かと思っていましたが、なるほどと思いました。
名所江戸百景の斬新な構図も、斬新であればあるほど、同じ視線の鑑賞者の臨場感も高まるというものなのですね。
絶対に読みたい一冊、ご紹介に感謝です。
kyou | 2008/02/17 7:40 PM
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。
この記事に対するトラックバック