2008.04.30 Wednesday
アーティストトーク「マーティン・クリード」
森美術館で開催中の「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」パブリックプログラムアーティストトークに参加して来ました。(4月26日)
1993年度ターナー賞受賞者レイチェル・ホワイトリード氏のお話はこちらにざっとまとめてあります。今日は2001年度受賞者であるマーティン・クリード氏のお話を簡単に。 マーティン・クリード自らの出発点にあたる作品から直近の作品まで腰を据え、スライドを多数用解説をして下さったレイチェル・ホワイトリード氏とは打って変わり、マーティン氏は立ったままでトーク開始。(結局終始座ることはありませんでした) 登場からして怪しげな雰囲気。 中々言葉を発しません。やっと発した言葉は、 照れくさそうに「中のものを外に出す」(ことが芸術だ)。 この時点ではさっぱり言いたいことが分かりませんでした。 しばし間があり、「僕が作った音楽を聴いて下さい」とおもむろにCDを。 耳に聞こえてきたのは「うぅ〜うーー」といった男性(多分本人)の呻き声。 会場全体が呆気に取られている中、「音楽」は止められ彼がマイクを手に。 マーティン曰く「これは「ウー」という歌です。」 全く彼の意向を読み取れないオーディエンス。 そんなのお構いなしにマーティンは次なる「作品」を。 「次はビデオ&DVDの紹介です。」 DVDがセットされ会場のスクリーンに大写しで一人の女性が登場。 いきなり、体内から吐瀉。画像はこちら(注) そう「げろを嘔く」映像が目の前で映し出されたのです。 マーティン曰く「自分が作品を生み出す時を表現したかった」と。 別の説明をするなら「あまり考えたくない」ということを「考えていた」そうです。人がもどす行為は考えてするものじゃありません。 マーティンも内なるものを外に出すことによって作品作りをしている為、嘔吐という行為に似ているのだと。その彼の中にある内なるものとは「mess」という状態。ひどく散らかったいて混沌としている状態。 その「混沌としたもの」を手に取れ、形あるものにすることが、まさに作品を作る工程の根底にあるものではないでしょうか。「mess」の具現化とでもいいましょうか。 かなり言葉を補って書いているので、すべて彼の言ったことではありません。とにかく口数が少ない作家さんです。言葉を選び選び発言しているようでした。「I think…」の繰り返しもしばしば。 続いてもう一枚のDVDも。タイトルは「Orson & Sparky」 二匹の犬が画面の左から右へ、右から左へ、はたまた奥にと右往左往。 「撮影者」は二匹の犬にこうして欲しいという動きがあるにも関わらず そんなのお構いなしに、ウロチョロ。 作品の作られる過程も観て欲しくこの作品をこしらえたそうです。 また、この作品は今回の展覧会に出展されている衝撃作「ライトが点いたり消えたり」と同じような意味を有しているそうです。それはどちらも音楽のような彫刻を作りたかったというマーティン氏自身の希望の現われでもあります。 空間に何も無くただライトが5秒間隔で点いたり消えたりしているだけの作品「ライトが点いたり消えたり」は空間に入った人が好きなものをそこに見ればよく、観るべき対象物は設置されていません。 観る行為は(音楽を聞くことに比べ)集中力を要します。それは自己意識の表れでもあります。 以上でほぼマーティンの話は終わりです。 テキスト化するにあたり、多少補正加えました。 当日は、まるで「失語症」を患ったかのようにたどたどしいトークでした。 ![]() ひたすら画面の前で吐くだけの映像や、ライトが点いたり消えたりするだけの部屋、「うーー」という音楽?作品等など、一体全体martin creedは何を表現し何が言いたいのでしょう。そしてまたどうして彼が栄えあるターナー賞の2001年Winnerになることができたのでしょう? それに「アーティスト・トーク」にも関わらず、ほとんど解説らしい解説も無く、質疑応答を入れても予定よりもかなり早く終わってしまいました。 きっと消化不良の方も多かったのではないでしょうか。 しかし、彼が精一杯発言した言葉を紡いでいくと、答えが自分には見えてきました。「ウーー」という音楽作品は、彼の内面(inside という言葉で表現していました)から外(outside)に振り絞るように発した立派な「作品」に間違いありません。だって内面は「mess」混沌としているのですから。流麗な耳に心地よい音楽が出てくる方が変です。 嘔吐シーンを写しただけのDVD作品はそれを一歩進めて映像化したものと捉えることができます。「mess」はまさに吐瀉物のようなイメージなのでしょう。そしてそれを外に出した時(作家が内面を外に具現化したとき)実はそれは本来生理的に他人は受け付けることのできない歓迎せざる形態なのかもしれないことを暗示しています。 「Orson & Sparky」や「ライトが点いたり消えたり」はそれから嫌悪感を取り除いた、マイルドな作品かと。そしてどこを観ても何を感じても鑑賞者に委ねられる作品となっています。一見作家は作品制作意図の解説を放棄したかのように思えますが、元来言葉で説明しても他人には分かってもらえないものです。自己の内面にある「mess」が作品の源泉なのですから。 この事が分かっていると人は言葉を発することに慎重になります。先ほど「失語症」と書きましたが、これは村上春樹の『風の歌を聴け』のワンシーンをトークショーを聴きながら頭に思い浮かべたからです。 マーティンのトークからは外れてしまいますが、このあたりの事項については、早稲田の石原千秋先生が個人的に去年買った新書の中では最高の名著だと思っているこちらの本でこんなことを述べられています。 ![]() 謎とき村上春樹 (光文社新書) 石原 千秋 言語論的転回は「世界は言語である」というテーゼによって示される。言語論的転回においては、言葉の先にただモノとして存在しうるような世界は想定されていない。それどころか、僕たちはモノそのものに触れることさえできないと考える。言葉がすべてだからだ。妙な言い方をするなら、僕たちが生きている世界はすべて言葉で「汚染されている」。つまり、言葉で意味づけられてしまっている。言葉が意味するようにしか、世界は存在しない。だから、言葉の外に世界はない。僕たちはまるで言葉の世界に閉じ込められているようなものだ。 こちらの記事にあるマーティンの言葉がそれを証明しているかと。 BBC News | Creed lights up Turner prize “I think people can make of it what they like. I don't think it is for me to explain it” 乱雑でごちゃごちゃしていて自分自身でもコントロール出来ない「mess」を形にして表に出すことが作品制作であるなら、形にした瞬間にある特定の「意味」を持ってしまうことになります。 言葉で説明することによって「言葉の牢獄」へ入ることになるなら、「変な人」とレッテルを貼られようともトークショーでもじもじしていた方がましだと考えたのではないでしょうか。 そしてその考えはマーティンの作品制作にも深く関わっているかと。 マーティン・クリード氏の作品が「展示」されていると気付かずに足早に展示室を出て行ってしまう人多数。マーティンしてやったり。 ![]() 「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」は7月13日までです。 ![]() Martin Creed: Complete Works それでは最後に「今日の一枚」 ![]() 好評のかみさんが描いた「マーティン・クリード氏とスパーキー」 「落ちつきがない」とメモ書きされていました。 この記事のURL http://bluediary2.jugem.jp/?eid=1372 JUGEMテーマ:アート・デザイン |











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